昭和50年04月21日 朝の御理解
御理解 第52節
「信心する者は驚いてはならぬ。惟から後、どの様な大きな事が出来て来ても、少しも驚く事はならぬぞ。」
信心する者は信心する者は、はぁ神様のおかげで天地の大恩恵の中に、私共の一生は終始するもので御座いますから、お礼に始まってお礼で過ごし、お礼で亡くなって行くと。実はそれが本当だと言う事が解って見れば、皆んなお礼の対象になる事ばっかりだと言う事です。成る程信心する者はであります。信心が無かったり信心を自分の思う様に神様を使うというか、思う様に又は思い以上におかげを受けると言う事が信心だと云った様な思い方の人には、到底分からない事だと思う。
信心する者は兎に角、お礼に明けてもうお礼に暮れる、ねばならない程しの御恩恵の中にあるんだと云う事です。それが本当の信心さして頂く者、本当の信心をさせて頂く者本当の信心をさせて頂く者は、だからどの様な事が起きて来ても驚ろかんで済むおかげが受けられると思うんです。先ずは天地の御恩恵を知ると言う事だけではなしに悟ると言う事にあると思います。識ると言う事だけならば成程そうだなと私共の一生と云う物を、今日までの事を考えて見てお礼を申し上げる事ばっかりである事が解ります。
だから是からとても矢張り、お礼を申し上げる事ばっかりの中に、終始するのですから、例えばそのどの様な大きな事が起こってもと云う事、どの様な事に直面しましても、それも矢張りおかげであると、信心があるから驚ろかんで済むと云う事です。その具体的な頂き方を致しましてです、私共が一生涯にはお天気のばかりの日はない。雨の日もある。嵐の日もある。けれどもその例えばその雨も嵐も、御恩恵であると解って見れば、矢張りお礼を申し上げねば居られない。
昨日は菊栄会の方達の信心実修。熊本のあちらは玉名と云う所、それから又ちょいとあそこ、あそこは何と云う所ですか。あのう窯元がありますその窯元廻りを致しましたんです昨日ばかりはもう終始お湿りでした。私はねそれがねはっきりしておる所に、私は信心の段々素晴らしさというか、又はそういう信心を頂いておらなければ、今日私がが云う、お礼に明け暮れるという程しの事になって来ないと思う。
信心する者はそういうおかげの中に生きて行けると言う事は、それをおかげと思わなければおられないと言う事は、まあ例えば十三日という日にお湿りであり、十六日という大祭にお湿りその間お天気ですよその間は、そして二十日という菊栄会の信心実修。私が例えば外へ出ろうと言う事になれば、今まで降っておっても降り止むという程しのおかげの中に、今日までは頂いて来た。けれどもこのお湿りは只良い加減なお湿りではなくて以下に神乍らであると云う事が解るから、またお湿りが又有難いと云う事が分る。
例えば以前はお月次祭などでお湿りがありますと二、三日必ずお湿りが続いたんです。でなかったら所謂偶然ではないと云う事です。そうあるべくしてあると云う事が分かって来るから、そのお湿りに対してもお礼が云へる。始めてあの田原坂の所謂あの古戦場と云いますか、もうそれこそ雨の田原坂とでも申しましょうか、何とも云えん素晴らしいそういう情景の中に、熊本の所謂あの辺りの地方を見聞させて頂いた。
本当云うたら見物するから、お天気が良くて風もなからなければ寒くもない、そういう時は良かろうけれども。そうではない傘を差しながら、まあまあ雨の中にそれがそれは又お天気の日では味わえない、それこそ雨の田原坂であります。まあ素晴らしいという一言に尽きるんです。ですから兎に角お礼を言わなければおられない。そう云うおかげを解るし、感じるからお天気の日も又有難い。
お湿りが又有難いと云う事が解るんですね、十三日の日にお湿りまた十四日からお天気になって、十六日じゃあぁ普通で云うならばです例えば十三日と云う神様の願いが成就する日とさえ云われる日ですから。その日は大祭前の内掃外掃があるのですからお天気がおかげの様ですけれども、神様の願いがその様にして成就してあると云うのですから。ならその日だけであったらです、偶然降ったの様にあるけれども、それこそ神様の願いが成就しながら降っておるのであると言う事を云うならば大祭の日に確かめた。
それを又も確かめる様に、菊栄会の一日の信心実修会にか、所謂朝から宿に着かせて頂くまでお湿りであった。何とも云えん云わば神様の願いが、成就のそこの証と云う物を感じるから有難いのです。だから信心する者は、そこの所を分からして貰えれるのですから、ならお天気の日だけが有難いのではない。どの様な事が起こっても、それが雨であろうが、風であろうが驚いてはならない、理由と言うか訳がそこにある事を知っておるから、矢張りお礼に明けて、お礼に暮れる事になるのです。
今私の茶の間に「せんがいさん」のカレンダーが出ております。私はまだそれを良く読んもでおりません。下に説明がしてあるのですが、それも読んどりませんけども、今月のは見事な字が書いて御座います。けれども一寸こちらを見ただけで解る事は、一番初めに礼と云う事が出ております。そのちょうどその真ん中、五行か六行かありますけど、その真ん中の所に又礼と言う字が出ております。そして一番最後の所に又礼という字が出てるんです。だからそういう今日私が思うておる様な意味の事を書いてあるのではなかろうかとま思うだけです。
ですから私は昨日今月のあれはお礼に始まって、又お礼で過ごしてお礼でお終いになって行く。是が本当は私共の人生でなからねばならんし、又それは信心をしておるだけではない。天地の御恩恵を識るだけではない、悟った者だけでなからねば解らない事だと云う風に思いました。所謂おかげの中に在るんだと、しかもそのおかげの中に在ると言う事を悟らして貰う所にです。そのおかげと思わなければ居られない、その裏付けと言う物がはっきりして来る事なんです。だから矢張りお礼と云う事になります。
信心する者は驚いてはならぬ、信心する者はしかも本当の信心させて頂いておる者は、そう云う事を育てさせて頂く事のために、信心の稽古をして行くのでなければならぬ。だからもう兎に角例えて申しますと、私共の信心の未だ未熟な、まぁ一生未熟で終るでしょう。その証拠にはお詫びがあり、願いがあるのですから本当は私は未だお礼を申し上げる事ばかりと云う事なんです。
その証拠にはあれもおかげであった、是もおかげであったと解る様になると、一人前の本当の信者だと仰る様に。例えばそれがどの様な事であっても、あの事のおかげで今日があるんだと体験させて頂くのですから、本当はもうあの事もない今日、只今の事が例えどの様な事であっても、矢張りお礼を申し上げる事が本当だとと云う事が解ります。私共の一生はそうありたい。お礼に始ってお礼に明け暮れさして貰う事であります。
只云うならばそれが本当に真からは例え感じられないに致しましても、この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰せられる程しの喜びと言う事は、内容がお礼と言う事でしょう。ですから本当におかげおかげで終始させて貰えれる。云うなら稽古をさせて頂いて、今日もおかげを頂きましてと言う事は、雨の日でもお天気の日でも、今日もおかげを頂きましてでなからなければならない。それが信心する者はであります。そういう信心を身に付けたいですね。
どうぞ。